金子直樹の「カージャケ・グラフィティ」 『ナウ・アンド・ゼン』 カーペンターズ

アルバムジャケットのビジュアルには、クルマの写真やイラストが印象的に使われているものが多くある。そんな音楽とクルマの間にある“ストーリー”を、博覧強記のエンスーライター、“カネヨン”こと金子直樹が読み解く。

文・金子直樹
2019.09.02

あの名曲と名車が共演したアルバム

1970年代の至宝が揃い踏みだ。アメリカの兄妹デュオグループ・カーペンターズが73年に発表した5枚目のアルバム『ナウ・アンド・ゼン』には、フェラーリの365GTB/4通称“デイトナ”のイラストレーションが描かれている。

同盤には、21世紀の今も唄い継がれ、知らない者はいないだろう名曲、『イエスタデイ・ワンス・モア』が収められている。他にも『ジャンバラヤ』、『シング』やアメリカのオールディーズ・ソングなど、誰もがどこかで聴いたことのあるスタンダードナンバーが並ぶ。カレン・カーペンターの穏やかで確かな歌唱、兄リチャードの柔らかい音作り。時代世代を越え、安心して身を委ねられるポピュラー・ミュージックだ。

そこに姿を現したフェラーリはどうだろう。デイトナは1960年代後半に登場した。60年代前半の250GTや275GTBといったリアル・スポーツカーから継承されたV12エンジンを長いノーズに収める、フロントエンジン・リアドライブのクーペだ。

いっぽうでボディデザインは当時のカロッツェリア「ピニンファリーナ」のチーフ、レオナルド・フィオラバンティによる明快で硬質なディテイルを持っていた。以前に彼自身が手がけた、豊かにうねる曲線基調の206/246GT“ディーノ”とは対極をなす、70年代の到来を告げる鮮やかな変化だった。

とはいえシャシー・レイアウトは古典的なままだから基本的には荒ぶるスポーツカーそのもので、親しみやすいとは言えなかった。 ブランド性にくわえ少量生産ゆえ、手の届く価格帯にあるはずもない。とてつもない高嶺の花だった。

フェラーリがアメリカで「受けた」理由

誰もが楽しめるカーペンターズと、誰しも手を出すわけにはいかないフェラーリ。このギャップ&コントラストがどうやって出会ったのか。そこには、アメリカという地の風土があった。

創設者エンツォ・フェラーリの旧友で、第二次大戦前にアメリカへ渡っていたルイジ・キネッティという人物がいる。キネッティはアメリカの自動車市場をつぶさに見て回り、高級車やスポーツカーを求める富裕層にはヨーロッパ的なるものへの強い憧れがあることに気づいた。

戦前ヨーロッパのグランプリでメルセデス・ベンツと伍して戦ったスクーデリア・フェラーリはその象徴であり、アメリカでスポーツカーを市販すればかならず成功するとアドバイスしたのだった。実際、フェラーリ初期のモデルには“カリフォルニア”“スーパーアメリカ”と呼ばれるゴージャスな大型GTやオープンカーが存在する。

そしてデイトナだ。この通称は、フェラーリのプロトタイプ・レーシングカーが67年のデイトナ24時間耐久レースにおいて1-2-3フィニッシュで総合優勝したことにちなむ。デイトナは、社会的・経済的に恵まれた層が好んで移住する南東部フロリダ州の有名ビーチリゾートだ。

かくしてフェラーリ・デイトナは70年代に成功を収めたアメリカ人にとって、最新最上の象徴となった。言うまでもなくその中に、カーペンターズがいた。音楽家が“成功の証”に高級外車を手にすることは、スポーツカー好きで知られたヘルベルト・フォン・カラヤンの時代から今に至るまで変わっていない。

『イエスタディ・ワンス・モア』が愛される理由

カーペンターズの音楽に目を向けよう。彼ら最大のヒットとなった『イエスタデイ・ワンス・モア』は、優しい旋律とわかりやすい歌詞、まろやかなテンポとアレンジの中に、印象的な“反復”が含まれている。歌詞のそこかしこに「Part」、「Heart」、「Before」、「More」といった、いわゆる韻を踏む演出が施されているのだ。こうすることで言葉に心地よいリズムと区切りを与えるのは詩歌の常套手段だが、アメリカ音楽では民謡や伝承曲の時代から、ことさら重視されてきた。

「ラジオでお気に入りが流れるのを待ったものだった。一緒に唄い、私は笑顔になれた」といった言葉で始まる歌詞を担当したのは、リチャードのカリフォルニア州立大学ロングビーチ校時代からの親友ジョン・ベティス。リチャードの目指す音楽作りを熟知していて、尖らない言葉と韻でアクセントをつけた。

佳き時代へのノスタルジーを唄に託したその音楽の中に、今ではカーペンターズ自身がいる。

カーペンターズとデイトナそして当時彼らが住んでいた自宅を描いたのは、日本人イラストレイターの長岡秀星。コマーシャル・アーティストとして活動後70年代初頭にアメリカへ渡り、レコードジャケットなどを中心に幅広い分野で活躍し、世界的名声を得た。『ナウ・アンド・ゼン』は長岡の名を知らしめた渡米初期の作品。デイトナを登場させた理由は、リチャードが単に自慢したかっただけという微笑ましいエピソードがある。長岡は以降アースウインド&ファイヤーのジャケットなども手がけ、“逆輸入”で日本でも知られるようになった。

この記事を書いたライター

Naoki Kaneko 

1964年東京生まれ。自動車&モータースポーツ誌と書籍編集を経てフリーランス執筆業者となる。音楽はキッス、ベイシティ・ローラーズそしてもちろん歌謡曲、ビートルズ、アメリカと欧州の大衆音楽に夢中になり楽器を手にする。現在“色物”バンドでエレクトリック・ベースと小唄を担当する。


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