引越しになると現れる、妖怪「トットコ」……

2019.09.18

大学を卒業して、九州から上京した。

旅立つ時には満開だった桜が、羽田に着きモノレールから見下ろす街ではまだ蕾で、遠くへ来てしまったんだな、と灰色の景色を眺めながら実感した。新しい生活のための荷物は、大きなダッフルバッグがひとつだけだった。

生まれ育った地方都市での生活に飽きていた。昼間に街なかで女の子とデートすれば、夕飯の時にはお袋から「今日、女の子と歩いとったらしかね」なんて言われてしまうくらいに狭い町だった。刺激がなくて退屈、というよりも変わらない毎日にウンザリしていたのだと思う。

上京を機に、自分の生活をなにもかも新しくしたかった。いくらオシャレな雑誌で「お気に入りグッズに囲まれて暮らす!」なんて特集を読んだとしても、実家に暮らしていたのでは、なかなか難しい。たとえ自分用にフランスの小粋なグラスを買ってきても、となりではステテコ姿の親父がサイダーのコップでビールを飲んでいるわけで……。実家で親と暮らしているかぎり、ポパイのような、ブルータスのようなライフスタイルなんて絶対に無理なのだった。

過去の生活を捨て、身の回りのすべてを一新しようとココロに誓い、だから荷物は最小限の衣類が入ったダッフルバッグひとつだったのである。

上京したての田舎っぺが、まず銀座のソニープラザに行って買ったのは、なんとかフレッシュという名の「トリコロールの歯磨き」だった。あれは今でも売っているのだろうか?白に赤と青のストライプが入った歯磨き。笑いたければ、笑いたまえ。実家に暮らしている間、ずっと憧れていたささやかな夢だったのだ。

それから渋谷の文化屋雑貨店で籐製の電気のカサを買い、駅前の花屋で大きな観葉植物を注文し、畳の上にブルーのカーペットを敷きつめて、冷蔵庫には南の島の写真をマグネットで留めた。なのにトイレは和式なんだな、と遊びにきた同郷の友だちに笑われた。

それから二年ばかり経って、最初の引越しをした。ダッフルバックひとつだった荷物は、ワンボックスカー一台分に増えていた。その次に引っ越した時には、ワンボックスカー一台分の荷物が、トラック一台分に増えていた。そして今の住まいに引っ越す時には、あまりの荷物の多さに引越し屋さんを手配した。トリコロールの歯磨きから、いつの間にこんなに荷物が増えたのだろう。

妖怪「トットコ」をご存じだろうか?

引越しのたびに不要なものを処分しようと思うのだけど、押し入れの奥から古い雑誌やら雑貨やら、子どもが幼い頃に描いた絵やら通知表やらが出てきて、さぁ、捨てようと思いながらも、気がつけば「これは、とっとこ」「あれも、とっとこ」……。超人「ステロッテ」も、妖怪「トットコ」には敵わない。結局、なにも捨てられず、そりゃモノも増えますって。押入れの段ボール箱は、もはやタイムカプセルみたいなものだと諦めている。そして数年後に段ボール箱の中から現れるのは、さらなる妖怪「ナンダッケ」……。

捨てられないのはともかく、困ったことにクルマ馬鹿の趣味は押入れに収まりきらない。以前、一階がガレージ(二台分!)で二階が住居スペースという、夢のような賃貸住宅の入居者にインタビューしたことがある。「趣味の世界が広がっていいですね」と羨ましがると、その方はおっしゃった……

広がりすぎて、次の引越し先がない……。

ガレージの隅の埃をかぶったラジコンカーの向こうで、妖怪「トットコ」が笑っていた。

この記事を書いたライター

夢野忠則

自他ともに認める車馬鹿であり、「座右の銘は、夢のタダ乗り」と語る謎のエッセイスト兼自動車ロマン文筆家。 現在の愛車は、荷室に寝袋とギターを積んだトヨタPROBOXのGT仕様と、数台の国産ヴィンテージバイク(自転車)。



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