そのビーチには、ムーンリバーが流れていた

2018.06.26

真夏のビーチに寝そべって、暑いじゃないか!と文句をいうヤツはいないのに、2CV は暑いから真夏には乗ってられない!と不平をいうのはおかしい、という主張を以前に、とあるシトロエン乗りの方から聞いたことがある。

もっともな主張だと思う。

電車やバスやタクシーに冷房が入っていなかったら、暑いじゃないか!と文句のひとつも言いたくなるだろう。それはわかる。それらは、快適に移動するための手段にすぎないから。

だが、今の時代に2CVに乗ることの意味は、そうではない。2CVに乗る、ということは真夏のビーチで優雅に過ごす、ということなのだ。そもそも目的が違う。つまり、すごく贅沢なことだ。

不便より便利なほうがいいに決まっている、小さいより大きいほうが、狭いより広いほうが、遅いより速いほうが……

もしも世間の価値基準がそういうことだとするなら、あえて不便で、小さくて、狭くて、遅いクルマを選ぶのは贅沢なことだろう。だれもが真似できることではないのだから。無駄を楽しんでこその、ゆとりじゃないか。じつはクルマ馬鹿は、豊かで贅沢な人種なのである。

学生時代に2カ月ばかり、ひとりで沖縄を放浪した。道路脇に「車は左」という標識がわざわざ立てられているほど、まだいたるところにアメリカの匂いが漂っていた。沖縄市のことをコザと呼び、その町の雑貨屋ではアメリカ人がドルで買い物をしていた。

夏休みシーズン前だったこともあって、観光客の姿は少なかった。目がくらむような真っ青な空と白い雲の下を、シュノーケルと足ヒレをデイバッグに詰めてバスに乗り、ビーチからビーチへと渡り歩いた。今ほどリゾート化が進んでいなかった本島のビーチはどこも美しかったが、船で海を渡った離島は、もっと素晴らしかった。

もっとも印象的だったのは、慶良間諸島の渡嘉敷島にある阿波連(あはれん)ビーチ。渡嘉敷島へは那覇の港から船で1時間ほどだから、本島からの日帰りツアーも可能だが、この島では、ぜひ夜を過ごしたい。できれば、満月の夜……。

阿波連ビーチは弓のような美しい弧を描く砂浜で、正面には小さな島が浮かんでいる。満月が昇ると月光の筋が、暗い海面を銀色に照らしながら静かに、まるで河のようにその島と浜辺をつないだ。その光景は初めて見る、まさにムーンリバーだった。僕は膝を抱えてビーチに座り、その河をずっと眺めていた。波音に向こうから、オードリー・ヘプバーンの歌声が聴こえた気がした。

ビーチには、贅沢な時が流れている。だけど、そこに世間の価値基準を持ち込んだ途端に、ありきたりのつまらない場所になる。夏を涼しく快適に過ごしたいなら、エアコンの効いたホテルの部屋で昼寝でもしていればいいのだ。

海に囲まれたこの国には、たくさんのビーチがある。この夏は、クルマにパラソルでも積んで暑いビーチに繰り出そう。スマホは、グローブボックスに入れたまま。ビーチパラソルの下で、波の音を聞きながら。陽が沈み月が浮かんだら、ムーンリバーと出会えるかもしれない。星空なら、天の川が流れるだろう。その豊かな時が夢でなかったことは、シートに落ちた小さな砂が教えてくれる。

もちろん、すでにシトロンの2CVにお乗りなら、わざわざビーチに出かけることもないけれど。

この記事を書いたライター

夢野忠則

自他ともに認めるクルマ馬鹿であり、「座右の銘は、夢のタダ乗り」と語る謎のエッセイスト兼自動車ロマン文筆家。 現在の愛車はGT仕様のトヨタPROBOX(5MT)と、普通自動二輪免許取得と同時に手に入れたハスクバーナSVARTPILEN401、ベスパPX150。


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