旅は、観光ガイドを閉じるところから始まる

2018.05.14

たくさんの旅をしてきた。すっかり忘れてしまった旅もあれば、忘れられない旅もある。忘れられない旅は、その時に吹いていた風や感じた空気の肌ざわりみたいなものまでも憶えている。それを憶えているからこそ、忘れられないのかもしれない。

作家の沢木耕太郎は、かつて自身の紀行文に寄せて「伝えたいのは旅というアクションではなく、それによって得られる感動というリアクションであり、その感動がまた人を旅へと誘うのだ」と書いた。旅先で頬を過ぎた風に感動し、それが記憶となって胸に刻まれるのだろう。

1989年の誕生日は、ニューヨークで迎えた。

年末のマンハッタンは想像していたよりも静かで、はるかに気温は低く、ひとり旅で話す相手もなく、寒さと人恋しさに震えながら、ただひたすら歩き続けた。

イーストヴィレッジの小さなアンティークショップに入ると、髪を編み込んだ黒人の女の子がひとりで店番をしていた。店のドアを開けても、顔を上げるでもなく声をかけるでもなく、東洋からの客など存在していないかのように、レジの向こうで雑誌を読んでいた。ほかに、客はいなかった。ラジオからは讃美歌が静かに流れていた。

誕生日の記念にと、ガラスケースの中にあった古い手巻きの腕時計を買うことにしてレジに持っていき、クレジットカードで支払いをした。パスポートとカードの控えを戻しながら、女の子は初めてこちらに顔を向け微笑み、そして、カウンター越しに「Happy Birthday!」と言った。

1989年の誕生日を祝ってくれたのは、世界中でたったひとり、名まえも知らない女の子だった。そのひと言を探し求めて、僕は歩き続けていたのかもしれない。

腕時計はもう動かなくなってしまったが、今でも机の引き出しの中にある。取り出せば、あの時のアンティークショップの温もり、微笑んだ女の子の黒い大きな瞳を思い出す。30年前の誕生日に、僕は間違いなくマンハッタンにいた。

旅にガイドブックを持っていくことは、ほとんどない。たいがいの場合はその町の地図だけをポケットに入れて歩き出す。ガイドブックばかり眺めていたのでは、そこに載っていること以外の出会いを失うことになる。だから旅は、ガイドブックを閉じるところから始まるのだろうと思う。

どこで遊ぶか、なにを食べるか、どこに泊まるか。観光ガイドに掲載されているのは、旅行というアクションのための情報でしかない。カーナビに感動するドライバーがいないように、ガイドブックを読んで感動する旅人はいないだろう。

旅先で、どんな人と出会ってどんな話をしたか、そこで見る夕陽になにを感じ、その時どんな風が吹いていたか。移動というアクションが、感動というリアクションを呼び覚ます。その出会いや発見が胸に刻み込まれて、時が経っても忘れられない旅となる。まずは旅に出ること。そして、感じたい。

人気のリアクション芸人に負けないくらい、たくさんのリアクションを得られる旅をしよう。マンハッタンの安ホテルに熱湯風呂はなかったが、その代わり冷水シャワーに飛び上がった。さぁ、ガイドブックを閉じて、忘れられない観光…… いや、感動旅行を、ぜひ。

ライター紹介

夢野忠則

自他ともに認めるクルマ馬鹿であり、「座右の銘は、夢のタダ乗り」と語る謎のエッセイスト。
クルマ雑誌「ナビカーズ」では自動車ロマン文筆家として人気コラム「クルマ馬鹿で結構!」やドライブエッセイを連載中。愛車は一万円で買った90年式のVWゴルフ2。ヴィンテージバイク(自転車)

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